MESSAGE

初めての方へ

人に影響を与えたい。
子ども達を
喜ばせてあげたい。

いきなりですが、「世界中の子ども達を喜ばせること。」そして「多くの人に影響を与える。」というのが私の夢です。夢であり、「やらなければならないという私の人生をかけた使命」だと思っています。

それは、私の、これまで生きてきた人生の経験や体験により作りあげられました。
少しお恥ずかしいところもありますが、最後まで読んでいただけたら光栄です。

生い立ち

昭和59年11月、私は大阪で生まれました。
生まれてすぐ2ヶ月目で岡山県赤磐市へ引越し、今でも赤磐市で生活しております。
父は会社員、母はパートで働き、3人兄弟の真ん中の長男として、ごく普通の一般的な家庭で育ち、決して裕福ではないけど、何不自由のないあたたかい家庭で育ちました。

小さい頃は、鼻水を垂らして、泣き虫、弱虫でいつも虐められていた記憶があります。

そんな弱い私を変えるために、父が野球好きということもあり、小学校3年生の時にソフトボールのスポーツ少年団へ入団。厳しい練習をして、下手くそな少年が少しずつ上手くなって、小学6年生の時にはキャプテンを任されるまでになりました。

私がキャプテンをした時のチームが地元では割と強く、何度も、大会で結果を出し、優勝や準優勝をして、月曜日の朝礼で全校生徒の前で優勝旗を校長先生に渡しにいくという事もしていました。キャプテンとして大会の選手宣誓も何度やったか覚えていません。

父や母からは、私は自慢の息子だ、と思われていたようです。

人生初の挫折
不登校へ

そして中学生になり、中学校の軟式野球部へ入部しました。

この野球部がかなり強く、私の一つ上の学年が中国地方の大会で優勝し、宮城県の仙台で行われた全国大会へ出場するほどでした。それだけ 強い野球部なので、当然のように厳しい練習の日々でした。

そんな厳しい練習の中、ある日、突然ボールが投げられなくなりました。

「まさか、なんで?今まで普通に投げられていたのに、手が震えて投げられない。」

そのような状態が続き、チームメイトからも監督からも白い目で見られるような気がして、小学校の頃はキャプテンとしてみんなを引っ張っていく立場だったのに、一気に自信をなくしてしまいました。今となっては「イップス」という野球の精神的な病気があるみたいですが、その症状に似ていました。

野球漬けの毎日だったので、もう野球の練習も学校も行きたくないと思い。、
私は「頭が痛い」と学校を休んで、不登校になってしまいました。

入院

当然、両親は「頭が痛い」という私を本気で心配して、病院でいろいろな検査を受けさせました。ですが、健康なのでもちろん異常はありません。ただ、「野球が嫌で頭が痛い」と言ってるなんて、当時の私には口が裂けても言えませんでした。
そこで岡山で一番大きな大学病院へ検査入院をさせられました。小児科の大部屋で入院することになり、そこには、白血病で髪の毛が無い子ども達や、重症の子ども達が沢山いました。私は、一番大きかったので、一緒に遊んであげたり、本を読んであげたり、勉強を教えてあげたりしていました。みんなからは「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って親しんでもらっていました。

ところがある日、隣のベッドにいた少年が急にいなくなり、 看護師さんにどうしたのかと聞くと、お亡くなりになった。
と聞かされました。衝撃でした。あんなに弟のように可愛がっていた子が死ぬのか?
そんなに辛い病気と闘っていたのだと初めて思いました。

そんな中、自分は「何やってんだろ。闘わずに逃げてるだけじゃないか。」と気付きました。ここにいる子ども達は苦しい病気と闘っているのに、無邪気で笑顔で頑張っている。私はこの子達の為にも「ここにいてはダメだ」とすぐ退院を希望しました。

そして学校へ通い、野球部へ戻りました。
この入院の体験がなければ私は学校にも野球部にも戻れなかったでしょう。

高校、
専門学校へ

私は岡山の野球の名門校の岡山東商業高校へ進学し、野球部に入りました。
厳しい練習には耐えられましたが 、高校になると上下関係が厳しく、その関係が嫌になり私は1年生の夏休みに野球部を退部しました。

野球をすることが全てだったので、学校も辞めようかと思っていました。
その頃は、坊主で頭を金髪にしていたので、そのまま辞めると言いに職員室へ行きました。
もちろんかなり怒られました。

ただ、担任の先生に「野球は辞めてもいいが、学校は辞めるな」って言っていただき、グレそうな自分を引き戻して頂きました。
無事に卒業もして、その時の先生にはかなり感謝しています。

そして大阪の整備士の専門学校へ進学しました。
ここでアルバイトもしながら2級整備士の国家資格をとりました。
以上が私の学生時代です。

社会人

私は車の整備士の資格を持っていますが、整備士になるよりも、いろいろな 資格が取れる大手の建設機械のリース会社に就職しました。そして香川の丸亀営業所に配属されました。ここでいろいろな機械の整備をしたり、日々学びの連続で楽しくやっていましたが、深夜工事などの出張修理が多く、昼も夜も働き、いつの間にか疲れ切ってしまいました。
そのような時に「好きなことをやりたい」と思い、スノーボードが趣味(かじる程度)でしたので、思い切って会社を辞めて、新潟の苗場スキー場で働き始めました。そこで雪の楽しさを覚え、雪って素晴らしいなと思い、スノーボードにのめり込みました。

また、一緒に働いている人たちの中に湘南でライフガードをやっている仲間達がいました。「夏、働くとこないならおいでよ」って声をかけていただき、冬はスキー場、夏は湘南でライフガードという生活が何年か続きました。寮生活をする中で沢山の人たちと出会い、人と触れ合うことが楽しくて、この仕事って私には向いているのだと思っていました。

そんな中 、1人の女性と出会い、このままの生活は楽しいけど、安定した仕事をしていないので、結婚する事もできないと思い、埼玉県の川口市でガソリンスタンドに就職しました。

そして、その彼女が妊娠し、結婚しました。
このまま幸せな日々を過ごせると思っていましたが、妊娠10ヶ月目、私が仕事中に妻から 着信があり、「産まれたかな?」とワクワクして電話をかけ直しました。その時妻はなぜか泣いていました。

「ごめんね。赤ちゃん死んじゃった」

胎盤剥離により、母親の体内でもう産まれてくるだろう子供が息をひきとってしまいました。

私は悲しくて、悲しくて涙で前が見られなくなりました。
だけど妻の方がもっと辛く悲しいですよね。自分のお腹の中にいたのですから。そのことから立ち直れないまま数年がたち、妻は「仕事に復帰して、仕事に集中したい」という思いと、私も長男なので「いつかは岡山に帰る」という思いもあったので、
ある時、岡山に帰る決心をし、円満離婚でお互いの道を歩み始めました。

岡山に帰り、フォークリフトの作業員の仕事につきました。
地元に帰ったことで地元の友達と遊びだして、
落ち着いた頃、そこで1人の女性と付き合い、子供ができました。
私は、以前亡くなった子どもの生まれ変わりだと思い、結婚しましたが、その頃、会社のお給料が少なく満足に生活もさせられないので喧嘩ばかりしていました。

妻の実家で生活をさせていただいていました。
子供は無事に産まれましたが、お金がないことで更に喧嘩をして娘が8ヶ月の時に耐えられなくなり、妻は娘を連れて家を出て行きました。

子どものことは大好きで、養育費を毎月支払っています。会いたいのですが、顔も知らない大人のおじさんに会ったところで子どもは喜ばないし、子どもが大きくなって「お父さんに会いたい」と言ってくれるのを待っている状況です。

そんな中、父親からスノーマシン の話を聞きました。父親の同級生でスノーマシンを作っている会社があり、人出不足で、営業の社員が集まらないので営業をして欲しいとの事でした。

そこでその業務を私と父親の2人でやろうと会社を立ち上げました。

入院していた時に感じた子供達の闘っている姿
グレそうになった時に引き戻してくれた先生
スキー場で働いていた時の雪に魅せられた楽しさ
ライフガードの時に人と触れあることができる楽しさ
雪を降らせることによって子ども達が喜んでいる姿

自分の子どもに何もしてあげられなかった後悔で
私の中で心が締め付けられる事
もっと子ども達の笑顔が見たい
もっと世の中に貢献したい
世界中でこれをできるのは自分しかいないという思い




全ての経験が一つに繋がり、
世界中でこれをできるのは
自分しかいないと思いました。

MOVIEご利用事例

夏だけでなく、春夏秋冬いつでもご活用いただけます。 また、地域のイベントでのご利用からテーマパークでのご利用も。
あらゆる時期・季節でご活用いただけます。

  • 真夏の雪イベント
  • スノーイベント

【2023年8月】さぬき空港公園グランスキー場様

  • 小学校イベント
  • スノーイベント

【2023年2月】コロナ明け3年ぶりの寝屋川の小学校のイベント

  • 幼稚園イベント
  • スノーイベント

【2022年4月】京都の幼稚園で雪イベント